Brief Comedy History

簡略なコメディの歴史。



1890年-1930年
最初にスタンダップコメディを始めた人を探してみたが、歴史の短いアメリカですらそれがはっきりしていない。それだけ民衆に近い立場としてすぐに浸透していった証拠なのかもしれない。スタンダップコメディの原型が、非常に皮肉的だが、白人が顔を黒く塗り黒人をステレオタイプ化し踊りや歌を見せていたミンストレルとなりそうだ。ミンストレルは姿を消し、ヴォードヴィルと名前が変わった。そのヴォードヴィルですら、最初の内は黒人は出演出来ずにいた。その壁を破ったのがバート・ウィリアムス(1874-1922)とジョージ・ウォーカー(1873-1914)だった。この彼等こそが、黒人初のコメディアンと言っていいだろう。自分達の顔を黒く塗りミンストレルの時のように、人々を笑わせていた。そんな彼等は自らブロードウェイでコメディ劇を上演したり、黒人の俳優組合を2人で作ったりもしたが、ウォーカーが他界してからは、ウィリアムスが一人で舞台に立つようになった。ウィリアムスは、有名なジグフィールドに誘われて、黒人として始めて白人が所有劇団に入団した。その後もヨーロッパ等を渡り、フランスの有名なピエトロとコメディについて語り合ったという。

黒人劇団のヴォードヴィルで非凡なコメディの才能を発揮していた女の子が居た。それがジャッキー・”マムス”・マーブリー(1894-1975)だった。14歳でコメディを始めたマーブリーは、「Chitlin' Circus(所謂ストリップ劇場)」やアポロシアターなどでスタンダップコメディをしていたという事なので、この頃からスタンダップは確実に実在していたという事になるだろう。彼女のお気に入りのネタを記しておこう。 「A Woman is a woman until the day she dies. but a man's man only as long as he can(女は死ぬまで女でいられる。男が男でいられるのは(エッチが)出来るまで)」。さすがストリップ劇場出身なので、下ネタが多かったようだ。彼女が20代になると映画が誕生し、あっという間に広がった。アポロシアターのお気に入りだったマーブリーが登場するのも早く、1930年代から映画に出演している。そんな彼女も白人の人々には知名度がなく、マーブリーが白人に認識されるようになったのが、60歳を超えた1960年代だという。その頃に、有名なカーネギーホールでのスタンダップコメディライブを経験している。

またマーブリーとは違い、舞台でなく映画で活躍するコメディアン達が登場する。一番有名なのが、ステピン・フェチット(1902?-1985)だ。フェッチトは、黒人俳優として初の億万長者となった人物でもある。ウィリー・ベスト(1913-1962)やステピン・フェチットは、怠け者の黒人等のステレオタイプをおどけて演じた俳優でもあり、それは多くの批判を浴びる事となった。ステピン・フェチットは、それを後年まで後悔する事となった。


1940年-1950年
「マルコムX自伝」にてマルコムXが語っていたように、マルコムと一緒に働いていた赤毛の面白い皿洗い「シカゴレッド」こと、レッド・フォックス(1922-1991)。40年代から「Chitlin' Circus」でスタンダップコメディを披露していた。このレッド・フォックスとビル・コスビー(1937-)が登場して黒人によるスタンダップコメディが注目されるようになる。フォックスの方は先に書いたように皿洗い等の雑務をこなしながら、ナイトクラブで才能を披露していた。コメディアルバムを製作したが、その過激な内容ゆえに白人地区のレコード店では売ることすら出来なかった。しかしそれが逆に評判を呼び、テレビに出演するようになった。 コスビーの方は、高校を卒業した後に海軍に所属し、その奨学金でテンプル大学に通う。在学中にカール・ライナー(「スタンド・バイ・ミー」等で知られるロブ・ライナー監督の父)に認められて、有名な「エド・サリバン・ショー」に登場して人気となる。黒人俳優として始めて主役でテレビシリーズに登場した。80年代には「The Cosby Show」が空前のヒットとなり、子ども向けアニメ「Fat Albert」を製作(後に実写映画化)して成功させた。

この時代はテレビの時代でもあり、フリップ・ウィルソン(1933-1998)ジョージ・カーヴィ(1923-1995)等も自身のショーを製作して大成功を収めている。


1970年-1980年
この時代はなんと言ってもリチャード・プライヤー(1940-2005)の時代。今活躍するコメディアンが「影響を受けた人」に必ず名前があがるのもプライヤーだ。彼の自伝映画「Jo Jo Dancer」によれば、彼は売春宿を営む家に生まれた。高校を退学すると陸軍に2年間在籍し、その後にナイトクラブでコメディをするようになった。60年代に入ると、映画やテレビなどの脇役を与えられるようになった。1972年の「Lady Sings the Blues」のピアノマン役で一躍注目を集めるようになる。80年代になるとその類まれな才能から勢いはとまらず、80年代だけで映画の出演作は13作もあった。絶頂期にあった83年の「スーパーマン3」のギャラが$4000000ドル(約4億円)だった。またコカインなどのドラックにのめり込むようになり、1986年多発性硬化症になった。


1980年-1990年
この時代に登場したのが若干19歳のエディ・マーフィ(1961-)だ。実の父が小さい時に亡くなり、異父に育てられたマーフィは15歳にして子供センターや地元のバー、高校などで自分の書いたネタを披露していた早熟だった。19歳で大人気のテレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」のレギュラーに抜擢された。そこで最大限の才能を発揮したマーフィは、すぐに映画「48時間」の主演にありつく。1987年の「ビバリーヒルズ・コップ」で人気をインターナショナルにしたマーフィは、自分のスタンダップ・コメディの映画を製作することになる。その映画の監督を任せれたのが新進コメディアンだったロバート・タウンゼント(1957-)キーネン・アイボリー・ウェイアンズ(1958)だった。
シカゴ生まれのタウンゼントの方は、幼い頃から俳優を目指してテレビで見る俳優達を真似ていたよいう。高校に入ると学校で演劇を披露し、大学に入ると自分で劇団を作り披露していた。その時にたまたまシカゴでロケに来ていたマイケル・シュルツ監督の目に留まり「Cooley High」のオーディションを受けるように勧められ、脇役として映画に出演した。またウェイアンズの方は有名な10人兄弟の一番上で、NYのプロジェクトに生まれ育った。エホバの証人の厳格な父の元で育ったが、小さい頃から見ていたリチャード・プライヤーにいつも憧れていたという。高校を卒業し、奨学金で有名なタスキーギ大学に入学し、エンジニアを目指していたが、幼い頃からの夢を追い、大学を中退してコメディの道に進んだ。その時に出会ったのが、同じ夢を追うロバート・タウンゼントだった。2人はすぐに意気投合して、一台の車に荷物をつめて、NYからハリウッドまでやってきた。タウンゼントは演技の経験の無いウェイアンズに演技指導し、ウェイアンズはスタンダップコメディの指導をタウンゼントにしたという。そんな2人が「ハリウッド夢工場」の脚本を書き、タウンゼントの映画出演料やクレジットカードを使い映画を完成させた。その映画を見たサミュエル・ゴールドウィンが気に入り、映画の権利を買収した。

多くの人気コメディアンは、「エド・サリバン・ショー」やジョニー・カーソンの「トゥナイト・ショー」ような番組を持つ事を夢見ていた。その一人がアーセニオ・ホール(1955-)だった。大学を卒業してコメディクラブを回っていたホール。「星の王子NYへ行く」でエディ・マーフィとの交友を深めた。ジョーン・リバースのトークショーで注目を集めたホールは、そのリバースの番組が終わると当時に自身の「The Arsenio Hall Show」を持ち成功させた。80年代終わりと90年代初期を代表するトークショーへとなり注目を集めた。

またポール・ムーニー(1965-)というコメディアンがいる。彼は自身もスタンダップコメディアンとして成功していたが、脚本家として当時人気絶頂だったレッド・フォックスやリチャード・プライヤーを支えた。また後の「In Living Color」での影の力もちとなっている。

このエディ・マーフィ、ロバート・タウンゼント、キーネン・アイボリー・ウェイアンズ、アーセニオ・ホール、ポール・ムーニーは、シナトラやサミー・デイビス・ジュニアの「ラッツ・パック」をなぞって「ブラック・ラッツ・パック」と呼ばれていた。


1990年-2000年
90年代に入ると、映画でも爆発的な人気となったエディ・マーフィになぞり、映画やテレビで大活躍するコメディアンが増えた。ウェイアンズはテレビで「In Living Color」を成功させてエミー賞を獲得。出演していた弟のデーモン(1960-)をはじめ、番組からはデビット・アラン・グリア(1955-)トミー・デビッドソン(1965-)ジェイミー・フォックス(1967-)等のスターを輩出させた。また「ブラック・ラッツ・パック」の主演映画で脇役としてデビューしたのが、クリス・ロック(1965-)だ。ロックも2000年には「クリス・ロック・ショー」を大成功させた。

またこの頃に始まったのが「Def Comedy Jam」。スタンダップコメディのライブをそのままテレビで放送するという形式は、大成功を収めた。これをプロデュースしたのが、ラップというものを世で育てたラッセル・シモンズだった。司会を務めたマーティン・ローレンス(1965-)はもちろんのこと、南部というそれまではコメディの砂漠地帯だったところから、クリス・タッカー(1972-)というスターを探し出した。今や映画で主役で活躍するセドリック・ジ・エンターテイナー(1965-)エディ・グリフィン(1968-)バーニー・マック(1958-)デイブ・シャペル(1973-)DLヒューグリー(1963-)スティーブ・ハーヴィ(1956-)モニーク(1968-)ビル・ベラミー(1965-)トレイシー・モーガン(1968-)等を輩出した。観客の大げさな反応までが社会現象となった。

「Def Jam Comedy」にて大スターとなったバーニー・マック、セドリック・ジ・エンターテイナー、DLヒューグリーの4人が「The Original King of Comedy」としてツアーを回り、その様子がスパイク・リーによってドキュメンタリー映画となった。またキングに対抗して、女性コメディアンのモニーク、アデル・ギブンス(?-)ソモア(1967-)ローラ・ヘイズ(?-)の4人が「The Queens of Comedy」として全米をツアーで回り成功を収めた。


2000年-
「Def Comedy Jam」にて徐々に人気の出てきていた、デイブ・シャペルがコメディ・セントラルにて「シャペルズ・ショー」を開始。番組は最高視聴率を記録し、またDVDとなった番組は、あの「シンプソンズ」の記録を破る売り上げを記録した。それによりデイブ・シャペルは55ミリオン(約5500万円)の契約金で新シリーズを契約し、皆の期待が集まる中、番組の指導権を徐々に奪われたを理由に撮影を投げ出してアフリカに逃避行。それがお茶の間で更に話題になった。

今、コメディアンは星の数ほど存在している。どんだけの人が、どの人が... 生き残っていくか、今まさに戦国時代である。



参考文献
On the Real Side >> 著者 Mel Watkins
Toms, Coons, Mulattoes, Mammies, Bucks >> 著者 Donald Bogle
Black Comedians on Black Comedy >> 著者 Darryl J. Littleton


Last modified 6/9/08

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