History


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1900-1940

映画創世記から、ブラックアメリカン監督誕生まで

{1800-1925}
{1926-1960}
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{1980}
{1990-}

Intro
1894年に、米のトーマス・エジソンが、映写機キネトスコープを発明した事から映画の歴史が始まった。 その翌年には、リュミエール兄弟がパリで、スクリーンに映し出される映写会を開き、映画はすぐに世界に広がり、 日本もその国の一つだった。

1903年に、最初のヒット映画が作られ、5セントで見られるショート映画 ニッケルオデオンの 始まりとなる。 映画が始まるまで全盛だった、生の舞台 「ヴォードヴィル」の観賞料が15セント位だったそうなので、その価格の安さも庶民から受けいられたようだ。


1900〜1915
ショート無声映画時代のブラック・アメリカンは、映画に出れる事がなかった。1852年に出版され、南北戦争のきっかけとなったと 言われている本、「アンクルトムの小屋」も映画化されたが、1903年に初めて映画化された時ですら、 トム役は、白人役者が顔を黒く塗る 「ブラックフェイス」だった。 その後も幾度も「アンクルトムの小屋」は映画化されたが、ブラック・アメリカンがトム役を 演じる事になるのは1914年まで、待つことになる。

他のショート映画でも、例え黒人のキャラクターであったとしても、「ブラックフェイス」の白人役者が圧倒的に多かった。 それらの映画は、コメディが多く、極端にブラック・アメリカンが論えるばかりだった。このブラックフェイスは、 ユダヤ系俳優アル・ジョルストンの「ジャズシンガー」(1927)が有名で、1940年代まで続いた。
その頃に登場したのが、初のブラック・アメリカン監督&プロデューサーのウィリアム・フォスターだった。


William Foster / ウィリアム・フォスター
1884年に生まれたウィリアム・フォスターはシカゴを拠点にして「Peking Theatre Stock Company」の ビジネス代理人として活躍し、ショービジネスの道に入った。その頃には、 ヴォードヴィルで知られる喜劇俳優、バード・ウィリアムスとジョージ・ウォーカーや、 1898年の「A Trip to Coontown」というNY初の長編ブラックアメリカン喜劇ミュージカルの舞台のプレスエージェントをしたり、 シカゴの新聞社「Defender」やインディアナポリスの「Freeman」のライターとしても、活動していた。 また自ら「Juli Jones(ジュリ・ジョーンズ)」の芸名を使い、俳優として舞台に立つこともあったようだ。

1910年に「William Foster Moving Picture Company」を設立し、そして、その頃に ブラックアメリカンの役者を使って、始めて彼等の短編映画「The Railroad Porter」が作られた。
1913年に、会社の名前を「The Foster Photoplay Company」に変え、「The Railroad Porter」は、1913年7月にシカゴの劇場で公開され、 9月にはニューヨークでも公開された。シカゴでは大盛況を収め、娯楽の中心地だった「The State Street」の要求により、 10月からは、続いて製作された「The Fall Guy」も一緒に公開されるようになった。続いて11月になると、初めて白人専用の劇場 「The Majestic Theater」にて、「The Railroad Porter」が公開され、好評を得た。

刑事映画の「The Butler」、そしてメロドラマの「The Grafter and the Maid」の3本を製作し、 4本の映画を持って、1914年フォスターの会社はツアーで南部を回ったりもしたようだ。そのほかにもニュース映画も製作した。

1916年になると、成功を収めたにも関わらず、その頃の多くの映画会社同様に経営難になり、会社は倒産した。続いて1917年には、 「The Railroad Porter」が公開された「The State Street」に出来た「The Star」のマネージャーとして、ブラック・ビジネスマンの ヘンリー・”ティーマン”・ジョーンズに雇われた。フォスターとジョーンズは、劇場を成功させ、フォスターも俳優として舞台に 立つ事があったようだ。

1920年代後半になると、活動の拠点をロスアンジェルスに移し、プロダクション会社を探したが上手く行かずに終わっている。
タイトルは分からないようだが、フォスターは生涯で少なくとも11本の映画を残したといわれている。


1915 (Year of Birth of Nation)
1915年、突如として映画の形が変わる。3時間にも及ぶ「国民の創生」 (「The Clansman」が オリジナルタイトル)がD・W・グリフィスによって製作される。 この映画を撮ったD・W・グリフィスは、 クロスカッティング等の映画技法を確立し、「映画界のシェークスピア」と呼ばれた一方で、 南部生まれのグリフィスは、この映画で クー・クラックス・クラン(KKK)を英雄にし、ブラック・アメリカンを欺いた。
グリフィスがこの映画で用いた、バックスマミーのイメージは、 今日でもブラック・アメリカンのステレオタイプとなっているし、マミー役は、 映画ではブラックフェイスの 俳優を使用した。


The Lincoln Motion Picture Company
1915年夏ごろに「黒人のありふれたいつもの生活や、人間としての傾向、そして才能や知性を映画に撮る」為に、 ユニバーサル・スタジオで少し俳優をしていたノベル・ジョンソンと、郵便局員だった弟のジョージ・ジョンソン等が集り、 1916年に会社をロス・アンジェルスの黒人コミュニティに「The Lincoln Motion Pictures Company」を設立した。 丁度、ロス・アンジェルスに黒人有産階級達が増えた時だった。

ノベルが社長と映画の主役を務め、ジョージがブッキングマネージャー、ノベルの俳優仲間のクラレンス・ブルックスが会社の秘書と主演、 ジェームス・T・スミスが副社長と会計、ウィリス・O・タイラーが弁護士、ダドリー・ブルックスが秘書補佐を務めた。 黒人が会社の運営を全て行っていた。

すぐに彼等は「The Realization of a Negro's Ambition」という、中産階級がテーマの映画を製作した。 同じ年の夏には2作目の「The Trooper of Troop K」という戦争がテーマの作品を制作。ニュー・オリンズやミズーリーでも 公開され、人気になったが、自ら手で宣伝して廻ったので、次の作品が簡単に作れる程の成績は残せなかった。

1918年にノベルの弟ジョージと、ユニバーサル・スタジオのカメラマンのハリー・ガントが正式に会社に加わった。 ガントは、会社の唯一の白人だった。そして同じ頃に、社長のノベルが、ユニバーサルと正式に俳優として契約し、 会社を離れ、ジェームス・T・スミスが、社長に就任した。

1919年の「A Man' Duty」では、クラレンス・ブルックスが主役を勤め、オークランドやアトランタでは注意を引いたが、 やはり自らの手だけの宣伝では、中々上手く行かなかった。
1921年にジョージが書いた物語をベースに「By Right Birth」が製作された。 豪勢なオープニングプレミアが開催されたり、日本初のキネマトグラフをレンタルしたり、話題を作ったが、上手くいかずに、 1923年に会社は倒産した。


Oscar Micheaux / オスカー・ミショー
1884年イリノイ州メトロポリスで、13人兄弟の末息子として生まれたオスカー・ミショーは、青年期の頃はあまり知られておらず、 17歳にして家を飛び出し、メトロポリスを離れ、シカゴに移って プルマン・ポーターとして 働き始めた。その頃に、教育者である ブッカー・T・ワシントンの 「経済的利点を獲得するために、白人と上手くやる事」というのに感銘を受けた。

1905年に、160エーカーの土地を2つ、サウス・ダコタに手に入れたが、ミショーはそれまで農業の経験が無かったが、 ホームステッダー(自作農業者)として働き始めた。

1913年には、その農業経験を「The Conquest: The Story of a Negro Pioneer」というタイトルで一冊の本にする。 1915年にミショーは、経済的理由により土地を失い、アイオワ州に移り「The Western book and Supply Company」を設立する。

ミショーは「The Conquest」を1917年に「The Homesteader」として、また書き直した。ミショーは白人農家や実業家に出向き、 自分の会社の共有権を売り、そこで雇われている黒人に本を売り歩いたという。

その頃に「The Homesteader」を読んだ「The Lincoln Motion Picture Company」のジョージ・ジョンソンが、 自社の経営が困難になり悩み、「The Homesteader」を映画化する事を思いつき、ミショーに話しを持ちかけたが、 実の兄弟のノベルにも反対された。反対された理由は「ミショー自身が監督する事が条件」だったからだ。 ミショー自身は、それで自分の小説を映画化出来る事を知り、1918年に「The Micheaux Film and Book Company」を シカゴで設立する。映画化への資金作りは、「The Homesteader」の本を売りさばいた方法と同じだった。

1918年にシカゴで製作を開始された「The Homesteader」は、1919年3月に公開された。その売り上げは十分だったようで、 すぐに次回作「Within Our Gates」を製作し始める。1920年1月12日に公開されたこの作品は、1919年に「戦後最悪」と言われた 各地で起きた暴動のきっかけとなった一つのリンチ事件をテーマにし、センセーショナルとなった。 シカゴの市長や警察署長は、この作品を検閲するのを拒んだ。しかし、ミショーはこの作品で今の映画で頻繁に使われている 「クロスカッティング」や、 「夢の回想シーン」等を取り入れ、映画に緊張感を持たせた。

1929年に始まった世界大恐慌等で、殆どのインディペンデンスで黒人が経営する映画会社が倒産する中で、 ミショーの会社だけは、生き延びた。原因の一つに、ポール・ロブソンやエバリン・プリーアー等の大手映画会社で 後にスターとなる俳優を輩出したり、すでに有名なボクサーであるサム・ラングフォードを主役に使ったりしたのである。 しかし、彼の会社が生き延びた本当の理由は資本を白人に頼っていた事が上げられる。 世界が大恐慌時代の中、1929年にミショーは会社を「The Micheaux Film Campany」と変えたが、 実際には2人の白人がコントロールしていたという。 1931年に「The Exile」で、初めて黒人監督による オールトーキー映画を 製作した。

ミショーは、ニューヨークに訪れた際に、 アラン・ロック等の 「ハーレム・ルネッサンス」 を代表する人物にも会っていたようで、幼少時代をハーレム・ルネッサンス時代に過ごした、現映画監督ウィリアム・グリーブスは、 当時の事をこう語る。
「映画監督のオスカー・ミショーがバーやグリル店に、カバンを持って現れて、そこにプロジェクターをセットして、 自分の映画を公開し始めるんだ。」

「リンチ」や「異人種間恋愛」、「レイプ」、「ギャンブル」等の、白人映画ではタブーとされる映画を製作し続けた、 ミショーは1948年の「The Betrayal」まで、約40本の映画を作り続けた。その後は、また作家活動をしたが、 「The Betrayal」の3年後の1951年に他界した。

1986年には、「全米監督組合賞」の 「Golden Jubilee Special Award」に輝き、翌年には有名な 「Walk Of Fame」にも彼の名前が刻み込まれた。


初の黒人俳優
黒人がテーマとして有名な本「アンクルトムの小屋/Uncle Tom's Cabin」は、幾度も映画化されたが、1914年に製作された 「Uncle Tom's Cabin」まで、白人が顔を黒塗りしたブラックフェイスが 主役のトムを演じていた。その映画で初めて黒人がトムを演じる事になり、舞台俳優だったサム・ルーカスがキャスティング。 白人が製作した映画で始めて主役を演じる事になったのが、そのサム・ルーカスだった。 しかし、その「Uncle Tom's Cabin」は、World Producing Corporationというマイナー会社が製作した映画だった。 メジャー映画会社が製作し、黒人が主役を演じるようになるには、1927年まで待たなければならなかった。
1927年、「Uncle Tom's Cabin」がユニバーサルで製作され、ハンサムな黒人俳優のジェームス・B・ロウが、 黒人として初めてメジャー作品でクレジットされる事となった。このユニバーサルの作品は、 ハリー・ポランドという監督が製作したが、そのポランド自身が1913年にインディペンデンスで製作された 「Uncle Tom's Cabin」で主役のトムをブラックフェイスで演じていた。1927年に自身が監督した際に、「よりリアリティを出すため」と、 ロウを主役にキャスティングしたのだった。このチャンスを得たロウは、イギリスにもプロモーション・ツアーに行く程だった。


Others
1920年代終わりには、「黒人映画」を作る会社が、100社以上もあったという。1915年に作られた 「国民の創生」を巡り、黒人指導者や教育者達は、何か出来ないかと模索し、 ブッカー・T・ワシントンの 秘書であったエメット・J・スコットは、自分達も映画を作る事を考えついた。 彼は「国民の創生(The Birth of Nation)」に対して「The Birth of Race」という映画を製作した。 また、10分から20分程度のショートコメディを2年の間に17本の製作した、ルーサー・J・ポランドの 「Ebony Pictures」等もある。

しかし、彼等だけでなく、ウィリアム・フォスターや、ジョンソン兄弟、オスカー・ミショーまでもが、 編集や撮影技術等に必要な機材不足により、作品自体は、大手の映画会社のに比べると落ちたようだ。


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1929年に、キング・ヴィダー監督の「ハレルヤ」が公開される。そして1933年には「ショーボード」が公開されたりと、 黒人がテーマながらも、白人が監督・プロデュースするという時代がやってくる。
またそういう映画から、ドロシー・ダンドリッジや、エディ・アンダーソン等のスターも誕生する。 また、ハティ・マクダニエルがオスカーを受賞する。次ページにて。


参考文献
Toms, Coons, Mulattoes, Mammies, Bucks >> 著者 Donald Bogle
Redefining Black Flim >> 著者 Mark A. Reid
Slow Fade to Black >> 著者 Thomas Cripps
「ブラック・ムービー」 >> 著者 井上一馬
「ノイズ13号/『黒人映画』とは一体何だろう」 >> 著者 ジョン・G・ラッセル


Last modified 5/5/04

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