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{1960-1970}
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70年代の映画は一まとめに「ブラックスプロイテーション映画」と呼ぶ人がいるが、そうではない。 70年代に入る、1年前の1969年に、写真家として有名だったゴードン・パークスが「知恵の木」で、 アフロアメリカン監督として、初の大手映画会社で映画化となった。 |
そのパークスは、カンザス州で生まれ育ち、16歳で姉夫婦の家を飛び出したパークスは、色々な職についた後、
カメラを手にした。そこでカメラの魅力に取りつかれたパークスは、当時住んでいたミネアポリスで写真を撮って、
地元の新聞社にその写真を持ち込み、それがボクシングのチャンピオン、ジョー・ルイス夫人に気にいられて、
沢山の女性の写真を撮るようになった。そして、36歳の時に「ライフ」誌の契約カメラマンとなる。次第に、活動の場を広げて、
ショートドキュメンタリーや小説を書くようになった。その処女作が後に映画化になる、自分の自伝的作品である「知恵の木」である。
本が出版されてから、3年後の1969年にワーナー・ブラザーズによって、映画化される事になり、
その監督と脚本をパークスはする事になった。その写真家の腕から、映画は美しい映像と評価を受け、
1971年に「Shaft(黒いジャガー)」を撮り、大ヒットとなる。アイザック・ヘイズが演奏した主題歌もヒットし、
その年のオスカーで主題歌賞を受賞している。ちなみに「Superfly」はパークスの息子が監督した作品だったが、彼は飛行機事故でまもなく他界している。 その同じ年に、インディ映画「Sweet Sweetback's Baadasssss Song」が大ヒットした。その作品を手がけたのが、 メルビン・ヴァン・ピープルズだった。 |
ピープルズはシカゴで生まれ、大学を卒業した後、空軍で3年過ごし、サンフランシスコでケーブルカーの運転手として働くが、
その頃に、短編映画を作ったが、全く相手にされずに、ヨーロッパに渡った。そこで、宇宙工学の勉強をしたり、
役者の仕事をしたりして、フランスでもう1度映画を作るチャンスが与えられた。「The Story of a three day pass」と
いう長編映画で、それがサンフランシスコの映画祭で好評を得た。そして、遂に1970年にハリウッドで
「ウォーターメロンマン」という、コメディを撮る事になった。次回作も大手のコロンビアから依頼されていたが、
それを断わり、すべて自分で制作した「Sweet Sweetback's Baadasssss Song」を完成させ、
インディ映画としては歴史に残る興行成績を残した。その後も、ピープルズはハリウッドに戻る事はなく、小説や舞台で活躍して、
1991年に息子のマリオが「ニュー・ジャック・シティ」で監督デビューして、
その後に「パンサー」や「黒豹のバラード」等のマリオの作品で俳優として出演している。
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シドニー・ポワチエと同じ作品で、同じくデビューしたデイビスは、名門のハワード大学に進み、
そこで演劇評論家のアラン・ロックに出会い、彼から戯曲を書くことを進められた。大学を中退して、
オフ・ブロードウェイの劇団に参加し、29歳の時にブロードウェイでデビューした。その後、映画でポワチエと共にデビューするも、
ポワチエは、大スターになるものの、デイビスは脇役ばかりの俳優となってしまった。
しかし、デイビスはアフロアメリカンとしての意識が高く、公民権運動にも参加し、夫人のルディ・ディと共に
自分の劇団も結成した。そんな時に、大手会社のUAがデイビスにチャンスを与え、「Shaft」や「Sweet Sweetback's...」が
完成した1年前の1970年に「Cotton Comes to Harlem」を監督した。小説を原作にしたコメディ映画のこの作品はヒットし、
彼は他に3作の作品を残した。映画を見ても分かるように、彼は後々のスパイク・リーのような、同じように意識が高い監督に、
強い影響を残す事になる。近年は、そのリー作品等で、素晴しい演技を見せてくれている。 |
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このように、3人の素晴しい監督の出現によって、 アフロアメリカンにも大手映画会社で映画を制作をする事チャンスが広がってきた。 そしてハリウッドにも、アフロアメリカンの観客の強さもアピール出来たのだが、逆に、ハリウッドは興行成績ばかりを気にして、 安物のアクション映画を量産する事となった。その映画の多くは、リスクを嫌うハリウッドらしく、 新人俳優でなく、フットボール選手のような、既に顔が知られている有名人を使用したアクション映画が多かった。 そこに現われたのが、パム・グリアーという映画界最高のヒロインだった。 |
パムも、既にパムの紹介ページで触れているので、あまりここでは触れないが、大学生の時に学費稼ぎの為に出た、
美人コンテストで2位となり、そこにいたタレントスカウトから、ハリウッド行きを進められたが、あまり乗る気はしなかったが、
20歳の時にハリウッドにやってきて、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズで、電話交換手として働く。
のちに、そこの会社が「ブラックスプロイテーション映画」を量産する事になる。「ワイルド・パーティ」で脇役を掴んだパムは、
その後も「ビックバードケージ」等の作品で、人気を少しずつ掴んでいった。1973年、パムが24歳の時に、「コフィ」の主役を得る事となる。そして、立て続けに「フォクシー・ブラウン」、 「Sheba, baby」、「Friday Foster」等で主役を演じて、ハリウッドでたった一人、 女性が主役を演じて観客を獲得できるヒロインになったのだった。(コケジアンの女優でも、その当時は、 まだパムのようなヒロインはいなかった)。量産ばかりのブラックスプロイテーションもまた、自然淘汰の道を歩んで行くと、 パムも次第に人気が下降気味となる。 しかも、39歳と時には、ガンの告知をされて、余命1年と宣言されるも、2年の闘病生活を得て、再びスクリーンに復帰した。 1996年、パムが48歳の時に、タランティーノ監督の「パルプフィクション」のオーデションを受けるが、 既にアークエットに決まっていたので、パムのファンのタランティーノは「ジャッキー・ブラウン」をパムの為に書き下ろす。 そして、パムは現代の若者の心も掴む事となった。 |
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他にも、ブラックスプロイテーションのヒーローは存在した。先に述べたように、元フットボール選手が多く、 スーパースターのジム・ブラウン、バーニー・ケーシー、フレッド・ウィリアムソン等が、そうで、彼等は当時、 飛ぶ鳥を落とす勢いだった。 70年のごく初期に作られたパークス、ピーブルス、デイビスの作品と、この上に挙げたヒーロー、ヒロインが出ていた映画は、 一線を画している。3監督は、自分達のヒーローを作り上げて、自分達の問題を表面化したのに対して、 他の作品は観客動員だけを気にして、コケイジアンが制作して、アフロアメリカンがヒーローになっていただけだったのだ。 作品を見て比べてもらえば、すぐに違いが分かる筈だ。3監督は、そのような映画が流行っても、もう同じような映画は作らずに、 自らの信念に従った映画を作ろうとするが、大手映画会社は手を貸さなかったのであった。本当に、彼等(アフロアメリカン)が、 作りたい映画を作るのには、80年代に入ってからになる。 |